3年5組 製作






厳しい伝統の吹奏楽部
 二中文化系部活動の中で、とりわけ華やかな成績を残してきたのが吹奏楽部でした。しかし、その裏では運動部顔負けの厳しい練習があったようです。卒業生に聞いてみました。
 当時の吹奏楽部は、男子も多く先輩後輩の関係が厳しかったのを覚えています。楽器を落としたりすると怒られるのがとても怖かったです。
 顧問の先生は1・2年生の時が渡辺亜紀人先生で大変情熱的に指導をしてくれました。厳しい指導が入ると指揮棒で頭をたたかれたり廊下の床の上に正座して話を聞いたりすることもありました。合奏以外の時は、コンサートに連れていってくれたり面倒見が良くとてもユーモアのある先生でした。

 当時は、コピーが非常に高価であったため譜面のコピーができず、苦労をしながら写譜をしたことが思い出に残っています。そのころの譜面は、今も実家に残っています。

高瀬智子さん
(昭和51年3月卒業、現小学校音楽教諭)

これは渡辺先生のサインです
当時の顧問の先生は、宮沢先生でとても怖く、指揮棒が飛んできたり、つばや汗が飛んできたり、非常に熱のこもった指導でした。先生にあだ名をつけて「ヘビ」などと呼んでいる人がいましたが、実はいい人で、私が大学生の時に秋田に帰った先生のところへ遊びに行き、お世話になりました。そして、なんて優しい人なのだろうと思いました。 
 部員の数が多くコンクールでは2度もバスを往復させなければなりませんでした。3年生最後のコンクールでは、16号が渋滞してしまい2度目のバスのとき演奏時間に間に合いませんでした。演奏はさせてもらい、大きな拍手をもらうことができました。しかし、得点が入っていなかったし、その時はきっとそれがもとで上の大会に行けなかったのだろうと、とても悔しい思いをしたことを覚えています。
 当時の部員には他にも音楽に携わっている人がいます。部活動をやっていて本当に良かったと思っています。


安藤淳子さん
(昭和58年3月卒業、現打楽器奏者)

昔懐かしい珠算部

珠算部顧問の中山例(つね)先生
 (昭和36年4月~昭和46年3月まで勤務)


 昭和36年当時、珠算部は、部員17人で活動していました。主に問題集等をやっていたように思います。時間を計るためストップウォッチを予算要求しましたが、認められず、陸上部のものを一緒に使うように言われました。
 そのころの部長さんは、野球部ばかりに予算がついていると悔しがっていました。
 珠算以外の生徒との交流も大切にしていました。当時の校長先生に「生徒と海に遊びに行っていいですか?」「生徒と川に遊びに行っていいですか?」などと聞いて怒られたことが印象に残っています。その時はみんなでイナゴを採りに行きました。また、当時、三小の近くに下宿していたので生徒がよく遊びに来ていました。当時の部長さんとは、今でもつき合いがあります。
 今考えると二中は本当に良い学校でした。二中に勤務できて本当に良かったと思います。
 みなさんも二中生であることを誇りに思ってください。


多彩だった二中文化部
 
 昭和47年のPTA広報誌『桜ヶ丘』によると、文化系部活動として、写真、文芸、園芸、珠算、書道、英語、調理、技術、美術、声楽、科学、社会、演劇、手芸、吹奏楽があったことがわかります。これに載っている活動紹介をいくつかあげてみると、

〔園芸〕サルビア、カンナ等色あざやかなもので花 壇を引き立てたい。…サボテンを増やしてみたい。
〔調理〕調理実習は時間の都合で土曜日だけ。他の 日は材料の選択、…献立、作業の手順などを研究している。
〔声楽〕六月TBS子ども音楽コンクール(優秀) 九月毎日学生音楽コンクール(二位、県代表)。 今年は「大きな声が出るように」を目標に練習を やり…時には厳しく、楽しく唄っていきたい。
〔手芸〕木枯らしの吹く冬のクラブは、和紙の色紙 を折って作る紙人形である。…和紙の手ざわりが なんともいえないのである。


などと、記述があります。どの部も活発に活動していたようです。

数学部を知っていますか

矢口光一さん(昭和48年3月卒業、写真2列目左から1番目)
 数学部の部員は、全員が3年男子でした。
運動部をやめて入部してくる場合が多かったと思います。活動内容は数学の定義を実際に確かめてみたり、黒板に図を描いて内角の和を確認したり、とんち問題のような発想の転換が必要な問題をみんなでワイワイ言いながら解いたことを憶えています。担当の先生は10組の担任の永井先生でした。数学部の活動については自由にさせてくれました。たいした活動ではなかったかもしれませんが、部員の中から公認会計士になった人もいます。